ハマサンス コンプリートライフ

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マサ斎藤・・・その波乱万丈なプロレス人生

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まさに虫の知らせと言うべきか、先日の7月14日僕は仕事の後輩と何気ないプロレスの話からマサ斎藤さんの話になった。「今どこで何をしているのだろう?」と・・・。後輩がインターネットで調べると現在マサ斎藤さんはパーキンソン病を患い、今なお闘病中とのことだった。

その二日後、ニュースでマサ斎藤さんが容体が急変して亡くなられたことを知った。亡くなった日は奇しくもあの何気なく後輩と話をした7月14日とのこと。信じられなかった。

 

僕は昔のプロレスに詳しいわけではない。マサ斎藤さんについては僕がプロレスを見始めていた時に新日本プロレスの解説を務めていたことぐらいしか知らない。マサ斎藤さんがどのような生き方をしてきたのか、どのようなファイトスタイルだったのかを知らないのだ。

 

そこで、マサ斎藤さんのプロレス人生を自分の持っている数少ない本を参考にまとめてみようと思った。プロレスの知識に精通している人であればはなはだ稚拙な内容かもしれないが、どうかご容赦願いたい。

では、始めるとする。

 

マサ斎藤さんのプロレス人生

昭和17年8月7日 東京都中野区出身 本名は斎藤晶典。明大レスリング部で活躍。昭和38年のアマレス、フリー&グレコ両スタイルのヘビー級全日本選手権優勝。

翌39年に待望の東京オリンピック出場を果たす。

40年4月力道山亡き日本プロレスに入門。

早くも6月3日の札幌大会でデビュー(対高崎山戦)しているが、41年3月に豊登に誘われて東京プロレスの設立に参加。

その東京プロレスは豊登と猪木の喧嘩別れで空中分解。

 

※マサ斎藤と猪木は同学年になる。マサ斎藤は日本プロレスの相撲部屋体質にどうしても馴染めず、プロレスをあきらめかけていた。日プロを除名になっていた豊登が新団体を作るというのでマサ斎藤はこれにかけてみた。猪木も豊登に誘われて日プロをやめて新団体に走った。東京プロレスの社長になるのは自分と同じ23歳の猪木だという。しかしその時そののマサ斎藤は猪木の生き方に共感を覚えた。しかし結局は猪木も帰国していない状況だったため、マサ斎藤が代表取締役に就任した。
東京プロレスは結局1年ちょっとで倒産。猪木さんは日プロに復帰し、東京プロレスの若手たちのほとんどは国際プロレスに吸収された。

 

マサ斎藤はその後半年間の“浪人生活”のあと昭和43年春に単身アメリカへ渡った。

ここから“男一匹”マサ斎藤の波瀾万丈のプロレス人生が始まる。

 

昭和42年に単身渡米。ロサンゼルスでアメリカ初マットを踏み、サンフランシスコに進出。日系の強豪、キンジ・シブヤのタッグ・パートナーに起用されて出世のきっかけをつかみ、USタッグ王座を奪取。USヘビー級王座も獲得して2冠王に輝く。

フロリダ地区に転戦してシングル・タッグ王座を総ナメにする躍進ぶり。

 

このアメリカでの活躍が認められ昭和47年3月日本プロレスに参戦。除名が解けて5年ぶりの帰国だった。

49年4月からは新日本の常連となって大暴れ。

54年4月5日東京体育館ではヒロ・マツダと組みストロング小林組を破って北米タッグ王座を奪取、そのままアメリカに持ち帰っている。

56年にはニューヨークに進出。WWF世界タッグ王座を獲得。

58年からはバーン・ガニアに誘われてAWA圏に定着。

59年4月にサーキット仲間のケン・パテラが起こした警官暴行事件に巻き込まれ、約1年間の刑務所暮らし。そこで考案したのが足殺しの複合技「監獄固め」だった。

1年5ケ月間のリハビリ生活の後、昭和61年12月に出所。翌62年に永住帰国する。満44歳になっていたマサ斎藤は新日本のリングに安住の地を求める。

 

昭和58年秋から勃興した長州・浜口・谷津らの維新軍団からジャパン・プロレスの全日本参戦まで陰の導火線の役割を果たした。

しかし、マサ斎藤がアメリカを捨てて約20年ぶりに日本に帰ってきたプロレス的な理由はあくまでもアントニオ猪木とシングルマッチで戦うためだった。

 

3,26:「INOKI闘魂LIVEパート2」大阪城ホール

4,27:“ノー・ロープ・デスマッチ”両国国技館大会

6,12:「87 IWGPチャンピオン・シリーズ 優勝決定戦」両国国技館大会

そして・・・

10,4:“巌流島の決闘”

マサ斎藤とアントニオ猪木は約半年の間に立て続けに4回もシングルマッチで戦った。
どれもこれもドラマ性と事件性にあふれたビッグイベントで海賊男が出現して試合をぶち壊したり、長州力とその仲間が乱入してきたりした。

 

特に観客無しのデスマッチ「巌流島の決闘」は2時間5分14秒もの死闘に及び多くのファンの記憶に刻まれた一戦となった。結果は斎藤がノックアウト負けという結果に終わっている。

 

平成2年 2月10日東京ドームでラリー・ズビスコを破って第40代AWA世界ヘビー級王座になった記録も大きい。

 

40代~50代にかけての10年間はあっという間に過ぎた。旧ソ連のアマチュア・レスラーたちにプロレスを教えたこともあったし、ベイダー、スコット・ノートンといった大物レスラーを何人も育てた。ホーク・ウォリアーと佐々木健介にタッグを組ませ、「ヘル・ライダース」というコラボン・ブランドをプロデュースしたこともあった。

 

平成11年2月14日、日本武道館におけるスコット・ノートンとの引退試合を最後に34年間の選手生活に別れを告げた。

 

※猪木が辞めないうちは自分もやめないでおこうと思っていたが、猪木が引退したらマサ斎藤もリングに上がる理由がなくなった。マサ斎藤とアントニオ猪木は最後の最後まで“第3者”のいるところで会話を交わさなかった。

 

色々な呼び名

若い頃は横山隆一描く漫画『フクちゃん』似であったことから「フクちゃん」。

現役時代は「ゴリラ」。引退して事務所に居座るマサ斎藤はまるでクマのぬいぐるみのようだった。

一時「獄門鬼」というニックネームがついたが、本人の希望により使われなくなった。

よく使われるのは「監獄レスラー」。

 

監獄固め

マサ斎藤の得意技。1年の刑務所生活をし、その出所後「獄中でこの技を開発した。」という発言からこの名前が付いた。寝た状態の相手の足を交差して絡めとり、腰を落として体重をかけ膝を締め付ける技。相手の膝関節にダメージを与える。

マサ斎藤以外の使い手は谷津嘉章。ジャイアント馬場は谷津の監獄固めを見て「これは一度かかったら抜け出せないだろう」と言っていた。

現在はプロレスリング・ノアのマサ・北宮が使用している。

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巌流島の決闘

「今までの俺は試合に関して、自分から条件を出したことがなかった。フロントの要求、対戦相手の要求を全て無条件にのんできた。しかし、今回だけは俺の夢とロマンを通させてもらうつもりだ。」
猪木は戦前こうコメントしている。

このテレビ局や客を排除した巌流島での対戦カードか決まると、東京スポーツもそれに呼応した。

「決戦の場の傍らには底なし沼が広がっている。」

「危険な野生動物が生息する丘もある。」

単なる嘘であるが、そのぶっ飛んだプロレスの世界から徹底して虚構性を排除してしまうと、その魅力は半減してしまうのだ。

 

決戦場もかがり火が取り囲む中、いよいよ戦いは始まった。

 

草地でスリーパーを決められた猪木の口から大量の泡を吐いた。猪木の10発以上のヘッドバットと鉄柱攻撃によってマサ斎藤は頭から下腹部までおびただしい量の血で染まっていた。島を渡る風に乗って記者席まで血の匂いが漂ってきた。またヘッドバッドの鈍い音も何度もこだました。船木誠勝が「社長!社長!」と叫ぶ中、アントニオ猪木は血塗れの顔面に草をくっつけて月光の下を這いまわった。

巌流島の決闘と銘打たれたこの戦いは、その内容もまさに戦慄と言えるものだった。

そして、2時間5分14秒この激闘は、マサ斎藤のTKO(戦意喪失)で終わるのだった。

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終わりに

こうして、マサ斎藤さんのことを調べると本当に日米ともに栄光に満ちて、また紆余曲折があったのだと考えさせられる。

よく、外国のレスラーに英語で話している姿をテレビで見たことがあったが、その姿がエリート感があって、容姿とのギャップもありとても好きだった。また、マサ斎藤さんの解説も愛嬌があり聞いていていい方は変だが和やかな気分になったものだ。マサ斎藤さんの解説に野暮なツッコミを入れない敬意を示すように実況をしている真鍋アナウンサーも大好きだった。

マサ斎藤さんが言っていたGo for broke」(当たって砕けろ)

今後の自分の人生にも渇を入れなければならない場面のときは、この言葉を思い出していこうと思う。

 

最後にマサ斎藤選手のご冥福を心からお祈りします。どうか安らかに・・・。

 

最後まで読んでくださりありがとうございました。