ハマサンス コンプリートライフ

ハマサンスは遠方にいる友人のハマクラシーへ声を発信し続ける。 どうでもいいことばかり話し続ける。

お札の人物について調べてみたぞー その2

ゴホゴホ。

 

ふっふっふ。

 

41歳になったばかりにいきなり風邪か・・・。

 

人生ままならんもんだなぁ。ハマクラシー君。

 

うつ症状はだいぶ良くなったと思っていたが、風邪をひくと同時にまた、動悸やプチパニック症状が再発したぞ!

くっそ~~~~。心身ともにやられてるな。

ここ一カ月ぐらい順調だったんだがなぁ・・・。

 

まあ焦らずに治していくしかないよな。

 

少しずつではあるが直って言っている実感もあるからな。

 

焦らずに焦らずに。

 

 

さて、お金チョコレートにより集まった紙幣の肖像の人物をまた調べてきたぞ。

暇つぶしにでも読んでみてくれ。

意外と面白いかもしれんぞ。

 

 

f:id:hamasansu:20181116160510j:plain高橋是清(たかはしこれきよ)

大正・昭和時代の政治家

①    仙台藩氏高橋家の養子となり藩からアメリカに留学して財政学を勉強しましたが、奴隷に売られかけてあやうく逃げ出すなど大変苦労して日本に帰ってきました。

②    日本銀行の総裁を務めたのち、原敬のあとを継いで政友会の総裁になり、1921(大正10)年首相になりました。そのあと何度も大蔵大臣を務めましたが、健全な財政を考えて軍事費をなるべく少なく抑えた予算を立てたために、軍部の反発を買い、226事件で若い軍人たちの手で殺されてしまいました。

 

世界恐慌の時も日本の経済をいち早く回復させた。

 

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この二つは1枚ずつしか当たらなかったのでこういう風にスキャナーしたぞ。

聖徳太子については次回書くとしよう。なんせこの人何回もお札に登場するからな。

今回は右側の伊藤博文だ。

 

伊藤博文

明治時代の政治家

①    長州(山口県)の藩士で幕末には討幕運動に活躍し、明治政府が出来ると参議という高い位につきました。そして岩倉具視といっしょにヨーロッパやアメリカを回って見分を広めました。

②    帰国後は政府の中心人物となり、またプロシア(ドイツ)に行って憲法を研究し、プロシア憲法をまねて天皇中心の大日本帝国憲法を作りました。

③    1885(明治18)年、内閣制度ができると日本最初の総理大臣となり、その後4回も首相になるなど明治政府の最高指導者でした。

④    日清・日露戦争をおこない、朝鮮を日本の領土にするためにおかれた韓国統監の地位につきましたが、1909(明治42)年、満州のハルピンで朝鮮の独立運動家に殺されました。

⑤    江戸時代の長い鎖国の間に遅れた日本の産業を盛んにして第2次世界大戦前の国の仕組みのもとを築き上げた人物です。

【エピソード】

博文は松下村塾の兄弟子である高杉晋作を尊敬していた。1865年長州藩の実権を握るために晋作がクーデターを起こすと博文は一番に駆け付けた。博文はこれを「一生の誇り」と感じていたそうだ。

 

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福沢諭吉 

明治時代の思想家。

①    豊前国(大分県)中津藩の下級武士の出身で緒方洪庵の塾で蘭学(オランダの学問)を学びました。その後英語を学び、1860(万延1)年、幕府の使節団が初めてアメリカに渡るとき、勝海舟を艦長とする咸臨丸にのって使節団の一行に従いました。

②    幕府の使節についてヨーロッパにもわたり欧米の文化や思想を実際に見聞きして帰り、「西洋事情」などの本を書いてそれらを紹介しました。

③    そのほか「学問ノススメ」「文明論之概略」など多くの本を書いて文明開化の当時の人々に大きな影響を与えました。

④    教育にも力を尽くし、彼が江戸に開いた塾は、今の慶應義塾大学のもとになりました。

⑤    当時としてはめずらしく男女平等を当たり前のことと考えていた人でもあります。「学問ノススメ」の最初に書かれた「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずといへり。」という言葉は、彼の考え方をよく表しています。

【エピソード】

1868年江戸では新政府軍と旧幕府軍が戦っていた。この戦争のさなか慶應義塾で授業を行っていた諭吉は、大砲の音を耳にしながらも逃げずに平気な顔で教え続けたという。

 

 

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新渡戸稲造(にとべいなぞう)

明治・大正時代の教育家・思想家。岩手県の生まれ。

①    札幌農学校でクラークの教えをうけてキリスト教を信仰するようになり、アメリカやドイツに留学後、母校や第一高等学校の校長、東京帝国大学の教授などを務めました。

②    キリスト教信者として国際平和のために努力し国際連盟事務局次長になって国際的にも大きな信頼を得ました。

③    国際人としての立場から日本の発展を世界に紹介することに努力しました。英語で書かれた著書「武士道」は世界的に有名です。

 

【エピソード】

当時、日本の領土だった台湾の長官・後藤新平は「台湾の農業を発展させてほしい。」と稲造を何度も招いたが、稲造は「病弱だから」と断り続けた。最後は「一日一時間の昼寝」を条件にようやく仕事を引き受けたという。

 

 

説明文は『学習人名辞典』文英堂・『超ビジュアル!日本の歴史人物大事典』西東社から引用・参考させてもらったぜ!

 

 

ふう、子供向けの本でも読むといろいろ面白いな。歴史に興味を持ってしまうよ。

 

さてさて、今日は2回もお邪魔させてもらったが本日はこれで終わりだよ。

 

このお札の肖像シリーズも次で最後になると思うぞ。

 

まあ、気長に付き合ってくれ。

 

あ、そうそう。前回の分も読み返したかったら、これを見てくれ。 

www.xn--vcki8dycvf.jp

 

 

 

では今日はこの辺で。

 

じゃあなー。