おはよう。ハマクラシー君。
金曜日だな。
16日だな。
君覚えているかい?
今日は僕の誕生日だ。
41歳になったぞ。
僕の記憶が正しければ小島よしおや内田有紀も今日が誕生日のはずだ。
プロレスラーのCIMAは昨日が41歳の誕生日のはずだ。
年を取るのは早いものだよなぁ。
これからもお互い仲良くしていこうじゃないか。
そうそう、М―1グランプリのファイナリストも決定したな。
優勝はギャロップな気がするぞ。
さて、ハマクラシー君。昨日は僕はお札のチョコレートの話をしただろ?
その肖像となっている人のことを自宅にある『学習人名辞典』と『超ビジュアル!日本の歴史人物大事典』という本で調べてみたのだよ。
結構多いから分けて説明してもいいかい?
では、中学時代の歴史の勉強の復習と思って付き合ってくれ。中々ためになると思うぞ。
これは5円札だ。人物は描かれていない。
10円札だ。国会議事堂が書かれているな。
和気清麻呂(わけのきよまろ)
奈良時代おわりごろから平安時代はじめ頃にかけての政治家。
①道教が宇佐八幡の神のお告げを聞いたと言って天皇の位につこうとしたとき、天皇の命令でお告げが本当かどうか確かめに八幡宮へ行き、天皇の位につこうとする者などは殺せというお告げを持って帰りました。
②そのため、道教の怒りを買って大隅国(鹿児島県)に流されましたが、後に、道教が権力を失うと許されて桓武天皇に重く用いられるようになりました。桓武天皇が平安京に都を移したのも、彼の意見によるものとされています。
学習人名辞典/文英堂より引用
二宮尊徳
江戸時代終わりごろの農政家。本名は金次郎。相模国(神奈川県)の生まれ。
① 貧しい農家に生まれ、小さい時から働きながら勉強を続け、荒れ地を耕して二宮家の立て直しに成功しました。
② こうした自分の経験から、農業の改革を唱え、小田原藩をはじめ、各地の農村の立て直しに尽くしました。
③ 彼は、勤勉と倹約をすすめた「報徳精神」を説き、この思想は死後も宗教の一つとして全国に広まりました。
学習人名辞典/文英堂より引用
尊徳の弟子が書いた伝記「報徳記」には尊徳が薪を背負い本を読みながら歩く姿が描かれている。明治時代の教科書に取り上げられると金次郎の像が全国に作られ子供の手本となった。
超ビジュアル!日本の歴史人物大事典より引用
板垣退助
明治時代の政治家。
① 土佐(高知県)の藩士で江戸幕府を倒す運動をすすめ、明治政府が出来たときには参議という高い位につきました。しかし、西郷隆盛らとともに征韓論(朝鮮を攻めようという意見)を唱えましたが認められず職を退いて故郷に帰っています。
② 次の年に国民の選んだ代表で議会をつくるべきだという意見書を政府に提出しました。これが自由民権運動(国民の自由と権利をまもり議会政治を求める運動)のきっかけとなったのです。彼は立志社という集まりをつくって自由民権運動の指導者となりました。
③ 1881(明治14)年ついに政府も1890年に議会を開くことを決めたので、彼は日本最初の政党である自由党を作ってその党首になりました。翌年岐阜で演説中、自由民権に反対する青年に襲われて傷を受けましたが、そのとき「板垣死すとも自由は死せず」と言ったといわれています。
④ 後に自由党を解散して政府に近づき内務大臣になったりしましたが1900年政治から身を引きました。
学習人名辞典/文英堂より引用
岩倉具視
明治時代の政治家。
① 公家(武士ではなくて朝廷の貴族)の出で、倒幕運動に活躍していましたが、明治政府が出来てからは、政府の有力者となりました。
② 1871(明治4)年、大久保利通らとともにヨーロッパを見て回りました。帰国後、西郷隆盛らの征韓論(朝鮮を攻めようという意見)に反対して国力を蓄えることを主張しました。
③ 征韓論の主張者たちは不平を持つ氏族(もと武士たち)といっしょになって自由民権運動(国民の自由と権利を守り議会政治を求める運動)を起こしましたが、彼はこの運動を抑え込むことに努力しました。
④ 明治政府の中にあって古い考えを代表する人でした。
学習人名辞典/文英堂より引用
今回はここまでにしておこう。
なかなか面白かっただろ?
また続きを調べて伝えるよ。もう少し待っててくれ。
ではまたな。ハマクラシー君。